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先物取引 翌月に王宮で行われた謁見は成功裏に終わったようだが、会見内容は不明である。カトリーヌはそれとは別に、ノストラダムスを個人的に呼んで子供たちの未来を占わせたとされ、四人の御子息はみな王になるという答えを得たという。四男エルキュールが早世したことでこれは外れたが、「御子息から四人の王が生まれる」という予言だったとする説もある。この場合、三男アンリはフランス王となる前にポーランド王となっていたため、正確な予言だったことになる。しかし、後にヴェネツィア大使ジョヴァンニ・ミキエリが1561年にまとめた報告書などでは、宮廷ではノストラダムスの「王子たちがみな王になる」という予言の噂が広まっていたとあり、「四人の王が生まれる」という予言は確認が取れていない[30]。この件に限らず、カトリーヌとの対話は色々取り沙汰されるが、後出の唯一の例外を除いては、対話の内容を伝える史料は存在していない。 投資信託 1559年6月30日、アンリ2世の妹マルグリットと娘エリザベートがそれぞれ結婚することを祝う宴に際して行われた馬上槍試合で、アンリ2世は対戦相手のモンゴムリ伯の槍が右目に刺さって致命傷を負い、7月10日に没した。現代には、しばしばこれがノストラダムスの予言通りだったとして大いに話題になったとされるが、現在的中例として有名な詩が取り沙汰されたのは、実際には17世紀に入ってからのことであった[31]。ノストラダムスは、1556年1月13日付けで国王と王妃への献呈文をそれぞれ作成し、1557年向けの暦書に収録したが、このうちカトリーヌ宛ての献辞では、1559年を「世界的な平和 (la paix universelle)」の年と予言している。このため、果たして1559年の悲劇を見通していたかは疑問である(この予言は同じ年のカトー・カンブレジ条約になら当てはまる、とする指摘もある)。 [編集] 晩年 アンリ2世亡き後に王位に就いたフランソワ2世は病弱で、早くも1560年後半の宮廷では、ノストラダムスの予言を引用しつつ、王が年内に没すると噂されていたという。実際にフランソワ2世はこの年のうちに没し、ノストラダムスの名声は更に高まったようである。このエピソードは、ヴェネツィア大使ミケーレ・スリャーノやトスカナ大使ニッコロ・トルナブオーニらの外交書簡にも記載があるので、史実だったと考えられる[32]。 なお、この頃のノストラダムス本人は、王侯貴族などの有力者を相手に占星術師として相談に乗っていたことが、現存する往復書簡からは明らかになっている。事実、1564年に依頼に応じて作成した、神聖ローマ皇帝マクシミリアン2世の子ルドルフのホロスコープも現存している。ただし、その予言の的中度、信頼度という点では、必ずしも芳しい評価ばかりではなかったようである。もちろん、カトリーヌのようにノストラダムスに心酔していた人物はいた。彼女の場合、ノストラダムスを世界一の狡猾漢呼ばわりしているスペイン大使ドン・フランセス・デ・アルバの本国宛の書簡にも、その心酔ぶりを揶揄しているくだりを見いだすことができる しかし他方で、ノストラダムス自身の往復書簡の中では、顧客や出版業者から、予言の曖昧さや冗長さにしばしば苦情も出されていたことが明らかになっている[34]。なお、1559年の処方箋も現存しており、医師としての活動も継続していたことが窺える。 FX ときに、フランソワ2世の後を継いだ弟の国王シャルル9世は、フランス各地をまわる大巡幸の一環として、1564年10月17日に母后カトリーヌともどもサロンの街を訪れた。この時シャルルは、ノストラダムスに会うためだけに立ち寄った、と語ったという。カトリーヌがモンモランシー公に宛てた書簡で言及しているおかげで、この時の会見内容は例外的に伝わっている。それによればノストラダムスは、モンモランシー公が90歳まで生きること、そしてシャルルも同じだけ長生きすることを予言したという(前者は3年後に公が75歳で没したことで外れ、後者はシャルルが10年後に23歳で没したことで外れた)[35]。他方、ノストラダムスは、国王よりもむしろ随行していた少年に関心を示し、国王親子のいないところで、その少年がいずれフランスの王になると予言し、周囲を当惑させたというエピソードもある。この少年はナヴァル家のアンリで、のちにアンリ4世としてフランス王位に就くことになった。このエピソードはパリ市民ピエール・ド・レトワルの日記(1589年)に見出すことができ[36]、史実かどうかはともかく、当時の人々に知られたものであったようである。 さて、大巡幸中のシャルル9世は、その後アルルに逗留した折にノストラダムスを呼び出し、彼に「常任侍医兼顧問」の称号を下賜したようである[37]。なお、これは名誉上のものであり、ノストラダムスが宮廷に出仕したわけではない。また、彼が国王から何らかの称号を賜ったのは、これが唯一である。後にノストラダムスの伝記を書いた秘書のジャン=エメ・ド・シャヴィニーが「アンリ2世、フランソワ2世、シャルル9世の顧問兼医師」と誇張して紹介していたこともあり、あたかもノストラダムスが一定時期宮廷に出仕していたかの如くに書かれることもあるが、事実に反する。 日経225 現存するノストラダムスの墓銘碑(1813年)その後のノストラダムスは、痛風もしくはリウマチと思われる症状に苦しめられていたようである。そして1566年6月には死期を悟ったのか、公証人を呼んで遺言書を作成した。7月1日夜には秘書シャヴィニーに「夜明けに生きている私を見ることはないだろう」と語ったとされる[38]。ノストラダムスは予兆詩で寝台と長椅子の間で死ぬことを予言しており、翌朝予言通りに寝台と長椅子の間で倒れているのが発見されたというエピソードが有名である。しかし、ノストラダムスの死と予兆詩を最初に結びつけたシャヴィニーは、寝台と長椅子の間で倒れていたなどとは述べておらず、ノストラダムスの死を発見した長男セザールもそのようなことは語っていないため、後代の創作であると考えられる[39]。 著作 化粧品とジャム論 1555年向けの占筮 現存最古の『予言集』完全版ノストラダムスは私信をラテン語で執筆しているので、当然ラテン語に通じていたはずだが、ドイツ語訳された瓦版を除けば著作は全てフランス語であり、ラテン語で執筆したものはない。 『オルス・アポロ』 ホラポロのヒエログリフに関する著書を翻訳した1540年代の手稿。1967年に発見され、翌年公刊された。当時数多く作成されたホラポロの訳書の一つだが、韻文形式で訳すという他に例のない手法を取り入れているため、ホラポロの研究者からも注目されたことがある[40]。 暦書類 1550年向けから1567年向けまで、1551年向けを除き毎年刊行された翌年1年間を予測した著書。韜晦的な内容ではあったが、非常によく売れたようであり、占星術師ノストラダムスの存命中の名声は、主としてこの一連の著作によって確立された。 『3月10日の7時から8時の間にフランス・サロンの町で多くの人に目撃された恐るべき驚異の光景』(1554年) 外為 1554年のこの日に見られた流星についてクロード・ド・タンド伯に報告した書簡(1554年3月19日付)をドイツ語訳したという瓦版。オリジナルのフランス語またはラテン語の書簡は未発見だが、真筆と見なされている。現存が確認できるノストラダムスの出版物としては最古だが、1556年頃の刊行と推測する者もいる。 『化粧品とジャム論』(初版1555年) 医師・料理研究家としての著作。2部構成になっており、前半で様々な薬品類の処方を説明し、後半で菓子類のレシピを紹介している。後半はフランス人による最初のジャムの製法指南書とされる。第一部には恐らくは倫理上の問題から早々と削除された章があるものの、1572年までに少なくとも7版を数え、他にドイツ語訳版も3版刊行される人気作となった。 『ミシェル・ノストラダムス師の予言集』(初版1555年) 3797年までの予言を収めたと称する、ノストラダムスの主著。現在「ノストラダムスの予言」として引用される詩句・散文は、基本的にこの著作のものである。本来は「百詩篇集」と呼ばれる四行詩と散文体の序文からなる著書であったが、17世紀に「予兆詩集」「六行詩集」が追加された。 『ガレノスの釈義』(初版1557年) 正確には『メノドトゥスによる人文科学研究ならびに医学研究への勧告に関するガレノスの釈義 Paraphrase de C. Galen, sur L'exhortation de Menodote, aux etudes des bonnes Arts, memement Medicine』。ガレノスの著書をフランス語で翻案したもの。これも医師としての著作と言えるが、内容的には、医学的というより哲学的であるとも指摘されている[41]。





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